大泉洋さんとえば北海道テレビ深夜番組でおなじみの「水曜どうでしょう」に出演しているタレントで、知らない人はいないのではないでしょうか。
大泉洋さんは1973年4月3日生まれ、北海道江別市出身で、配偶者はフジテレビドラマプロデューサーの中島久美子さん。
僕が初めて大泉洋さんを見たのは、1999年からフジテレビ系列で全国ネット放送されていた救命病棟24時の第3シリーズ、2005年1月から放送されたテレビドラマからです。
その頃のキャラクターは今でもよく覚えており、子供が見ても馴染みやすいキャラが印象的でした。
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死ぬんじゃないかと母が心配した学生時代
大泉洋さんは高校を卒業後、大学受験で二浪を経験し、後に北海学園大学経済学部に入学しましたが、本来の志望校ではなかったため、死ぬんじゃないかと母親が心配するほどかなり落ち込んでいたそうです。
しかし本人は「このままではだめだ」と奮起し演劇研究会に入部したことが、現在の役者人生へと繋がっていくことになります。
大学在学中に劇団の劇団員に認められ、現在の事務所に配属することになり、1995年10月の北海道テレビの深夜番組から芸能活動が始まります。
翌年1996年からは、今では知らない人もいないという「水曜どうでしょう」に出演がスタートし、深夜番組ながらも視聴率がかなり高かったことから全国放送されるようになり、北海道内から全国へタレント活動が活発化していきました。
それから大泉洋さんの知名度が全国に広がったことで、バラエティ番組に登場するなど飛躍的に活動領域が広がりました。
31歳で東京進出
大泉洋さんが本格的に東京へ進出したのが2004年、今から15年前の31歳の時でした。北海道での活動で行き先の見えない不透明感や打開できない状況に閉塞感を覚えたのが一因だったようです。
また芸能界や映画界では上下関係が非常に厳しいことで有名ですが、実際北海道ロケの映画で東京らやってきた俳優に格下扱いを受けたのも、東京へ進出するきっかけになったようです。
僕が初めて大泉洋さんを見ることになった2005年の救命病棟24時(シーズン3)ですが、これは大泉洋さんにとって連続ドラマ初出演作品でした。
以後数々の人気ドラマに出演し、準主役になるなど注目度が高まった影響で、北海道での視聴率が関東の平均20%を上回る25%超えという高視聴率を獲得した背景もあります。
バラエティ番組でのトーク力
大泉洋さんのトークを聞いたことがある方ならわかりますが、非常に高いトーク力を持っているなというイメージがあります。
実は幼少期に両親が車でかけていた落語のテープ内容を全て暗記するまで聴き込んでいたという経緯があり、それが後にトーク力を養う結果になったそうです。
元々教師になる予定だったそうですが、それも当時出演していたテレビはアルバイトという位置づけであり、不況で就職難だったのも相まって今あるテレビの仕事や劇団の活動をしっかりやっていこうという想いが強かったそうです。
リスクを背負ってでも人に笑ってほしい
大泉さんは自身を「”マグロが泳いでないと死んでしまう”みたいなもので、笑いがないと辛くて仕方がない」と表現していて、リスクを背負ってでも人に笑ってほしいと考えています。それは「世界中から好かれたい」「嫌われたくない」という気持ちが強いからなんだそうですよ。
まとめ
僕が初めて大泉洋さんを知ってから実に14年の歳月が経ちました。
当時32歳であった大泉洋さんも今では46歳、貫禄がある面立ちになりましたね。
なお7月7日に放送の新ドラマ、「ノーサイド・ゲーム」に主演として出演されます。
東京進出後数々のドラマや映画で活躍されてきた大物俳優ですから、今後の活躍に期待が集まるばかりです。
これからも応援していきたいですね。
田舎産まれ、田舎育ちの人口の少ない町で幼少期を過ごしました。
自然豊かでしたが、刺激は少なく町は廃れていくばかり、そんな僕が東京へ来て、毎日成長していく都会の姿を見たときは、正直びっくりしました。
変わっていくのは、動き続けることなんだって気がついた時、僕はすでに行動に移していました。
そんな日々変わりゆく何気ない景色の中に、生きている僕たちがいて、一時一時を踏みしめていく。
僕はその一時を大事にしたい、そういう思いを込めて「たのらいふ」と名付けました。